第13章 鉄砲伝来について
日本では平戸は王直を1542年に招き入れたとなっていますが、私はそれは違うと思います。もっと前に土産品として鉄砲を贈っているかも知れません。
日本における鉄砲伝来は「1543年鹿児島の種子島に1隻の中国戦が漂着し、その船に乗っていたポルトガル人によって火縄式鉄砲が伝えられた」ということになっていますが、この中国船の主は誰あろう王直であり、たまたま漂着した種子島で鉄砲を渡したことが鉄砲伝来の年として歴史的に認識されているに過ぎません。
公式な記録でもその1年前の1542年には平戸に招き入れられ中国風のお屋敷を建てています。さらには、その2年前の1540年には五島に来航している記録があるので、その頃から平戸側との関係はあったと考えられます。その間、平戸は隆信の父興信が1541年9月に亡くなり跡を継いだ隆信はまだ12歳でした。ですから実際の交渉は重臣の籠手田氏や大島氏がやっていたのかも知れませんが、平戸が鉄砲に興味を示さなかったわけがありません。現に興信が亡くなった翌年の1542年には、宗家松浦を攻めています。このときに鉄砲を実戦使用した可能性は高いのです。そうなれば、本来の鉄砲伝来の地は平戸であり、少なくとも1542年には平戸に伝来していて、日本で初めての実践での使用となります。
王直が1542年に平戸に招き入れられたときに鉄砲を献上していないかどうかを、私は中国側に調べて欲しいと思っています。このことで日本の常識が見直され、平戸と王直の関係性が及ぼした業績で、中国と日本の関係が見直されることとなれば良いことだと思います。
王直の中国風のお屋敷を建てるにあたって、おそらく中国側から多くの職人が来航していたはずであり、そのまま住み着いた者もいたかも知れません。王直のお屋敷周辺は中華街のようであったとの記録もあります。その時期に焼き物の話も当然出ているでしょうし、景徳鎮の美しい白磁の器も目にしていたはずで、この時代から陶石はどこで見つかるのか、窯はどこに築くべきなのか、用意周到に磁器生産の計画をしていたのかも知れません。
